天使と悪魔、それから仏さん
- 4月1日
- 読了時間: 2分

和尚の雄道です、こんにちは。
よく映画等で、その登場人物の頭の中に、天使と悪魔が出てきて、
その人間の心の葛藤を描くことがあります。
例えば、ダイエットをがんばっている真っ最中、ある日喫茶店に入ると、
目の前には美味しそうな、しかし甘ーい、脂をしっかり含んだドーナツがズラリ。
とたんに頭の中で悪魔が現れ、
「旨そうな、ドーナツじゃねえか、苦いコーヒー片手にあれを口に頬張ってみろよ!
サイコーだぜ!なぁ喰っちまえよ!」
と、そそのかしてくるかと思うと、
今度は天使が現れ、
「やめるのです。ここまで懸命に我慢し、ダイエットを続けてきたではないですか。
ブラックコーヒーを頼むだけにしておきなさい。」と即座に反論。
すると悪魔が、「何言ってんだよ、これから先、一切旨い物喰わねえつもりか!
短い人生、そんなんでいいのかよ!一個と言わず、2、3個喰っちまえよ!」
そしてまた天使が、「悪魔に負けてはいけません。」と抵抗するのですが、
頭の中の悪魔の口数は豊富なのに対して、天使は「やめろ」としか言わない。
欲望を受け入れる言い訳は沢山作れますが、
欲望に逆らう言葉は中々自分から湧いてこないものです。
都合、この争いは悪魔の勝率が高くなります。
そんな私ですが、最近になってようやく、
勝率がだいぶ天使に傾いてきた様に感じます。
というよりも、悪魔と天使の戦いが消え、
その場に仏さんが入ってくる様になったとも言いましょうか。
曲がりなりにも仏さんの弟子を名乗り、
少しでも仏さんに近づいていこうと20年近く足掻いている現在ですが、
言ってみれば、20年近く仏さんに育ててもらっているというわけです。
出来の悪い子供ながらも、仏さんの顔に泥を塗らない自分でいられる様にと
責任がはっきりと生じております。
「仏さんに、ダイエットすると誓っちゃった。こりゃ守らなにゃ弟子でいられん。」
という具合です。
住職として、僧侶として、何か判断をする時はいつも、
「仏さんならどうするだろう?」と勝手に考える癖がついてきました。
しかしながら、仏さんご本人でも無いのに、
仏さんの様な顔をして、判断したり、モノを言ったりする事を、
「偽善」というのでしょう。
その「偽」の部分をよくよく注意しながら、
できれば生涯を掛けて、「偽」の字を取れます様に、
常に「仏さん」に近づいていこうとするのが、
我々僧侶の修行と言えるものだと受け取っております。
僧侶としての成人を迎えるにはまだまだ道遠いようです。

コメント