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​泉龍寺 由緒記

​ 安和二年(968年)十一月二十八日、高野山金剛峰寺第三十八代検校の覚海 阿闍梨が法弟 蓮茂の冥福を祈念して造立した瑞雲山西照院が今日の泉龍寺の前身です。その後山岳信仰の衰微と共に頽落しましたが、戦国末期豊臣秀頼の遺臣池田なにがしが諸国流浪の末、今日の長坂町大八田朝陽山清光寺の住持 樹察和尚に随い、ついに出家して名を玄朔と改め、衰えた西照院を復興し、師の樹察和尚を再興開山の第一代に請して、曹洞宗に改め自らは第二代となりました。また、その頃、相模の国、南足柄 大雄山最乗寺の末山で令名も高い、伊豆の最勝院から「さいしょういん」という寺号が、音が同じで不都合という事由で、変更するよう申し入れがあり、やむなく寺号を泉龍寺に改めることになったと伝えられています。そんなわけで西照院開創から数えれば、本年平成三十年は開闢一千五十年の節目の年にあたることになります。

​ さて、徳川期に泉龍寺は幾度か火災にかかり、殊に安政元年(1854年)の大火災においては、九十九坪の本堂、五十五坪の庫裏、四十余坪の衆寮及び土蔵と、ただ総門一宇を残すのみで他は全て灰燼に帰し、往時の偉観をすっかり失ってしまうことになりました。その後、伽藍も確たるもののないままに、幕末維新の大変革の時代を乗り越えられたのが不思議なくらいですが、十八世朴順和尚代に長沢集落のお大屋(だいや)輿水家の母屋を移築して、本堂兼庫裏を完備。檀家の皆さんの浄財喜捨と労力奉仕があってはじめて可能な難事業であったでありましょう。番号付けして解体した部材を大八車につけて、一台また一台と弘法坂を下ってくる勇姿に思いをいたさずにはおられません。明治十三年のことであります。昭和の末年、先代の禅光和尚代に、ついに機縁熟し、檀信徒の皆さんの菩提寺護持の念が本堂再建という大事業となって結実。​まさに檀信徒の皆さんの血と汗の結晶であり、難値難遇の一大事業でありました。

​泉龍寺復興記念の碑
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伝へ聞く 雨寶山泉龍寺は平安朝の頃 人皇六十四代圓融帝の安和年間 高野山金剛峰寺第三十七代覚海阿闍梨 壮年の頃 法弟 蓮茂の為に真言宗の一寺を創建 瑞雲山西照院と称せしに始まり 当地方仏教信仰の中心寺院たりし如し

爾後 山岳仏教と倶に衰微退転せる如し 戦国時代の末 甲斐の武田氏亡び徳川氏興る頃 豊臣氏の遺臣某 流浪して清光寺樹察和尚に随ひて出家 玄朔と称し 慶長の始め廃退せる西照院を復興改宗し 師 樹察を開山に請し 自らは二世に位す

 家康幕府を開き 慶長八年三月 四奉行をして黒印状を発せしめ 境内及び附近の地を寄進し後 朱印状を与へる旨を告げ 夏目六兵衛をして禁制を発せしめたり

たまたま伊豆国の大寺最勝院と 当寺の寺号西照院は両者の音同じく紛淆の虞れありとなし  是が更改を迫りたり 遠地の最勝院をして此の挙あらしめたるは蓋し 当寺の名 顕著なりしに拠るなるべし 当寺は其の言を容れ寺号を泉龍寺と改めたり

時降りて 享和三年二月本寺清光寺より後見の職に充てらる 権威の卓越なるに依れるならん

 

爾後両度火災あり 本堂・庫裏・山門・衆寮・土蔵等を失い旧時の観なし 災厄の致す処と雖も亦悲しむべし 明治十三年十八世朴順和尚の代 長澤村の民家を購求移築し 僅に法灯を挑げ百余年を閲す 近時檀信徒各位旧時を追懐し将来を慮り 寺門の復興と発展を想ふや切なるものあり 即ち浄財を喜捨し再建を企画す 数年を経ずして法堂及び位牌堂成る 輪奐旧に倍し偉容法悦を満たす 此の盛事一時の感激と讃揚に止むべからず  即ち石に録して後昆に伝へんとす 視る者其の浄行と努力を語らんことを望む

昭和五十九年九月竣工の日

  現董  良覚禅光 識  洞南 姥塚幹人 謹書

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