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東龍寺

 

 明治維新前、高根町村山西割にあった寺院。泉龍寺の末寺でしたが、東龍寺尾根三十九戸と共に、泉龍寺へ合併。現在地はお地蔵さん及びお墓などが祀られ、そのなかに、東龍寺歴住のお一人として、「大安常察庵主」の石塔が現存しております。北割の小林家の墓所にも、同様のお名前の記載があることから、同家とのご縁も推し量れます。

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村山西割聖観音堂

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「大安常察庵主」の位牌

​東龍寺跡にある石塔

 村山西割聖観音堂

 別名、厩尻(うまやのしり)観音堂。天保十五年(1844年)、諏訪神社本殿を建てた棟梁、立川和四郎富昌の手による須玉町海岸寺観音堂を請い受けて、当地に移築したものとのことです。

 一説には、この堂宇は室町初期の創建とされておりますが、歳月と共に、荒廃が著しく、しばしば補修の手が加えられております。昭和末年に大改修が加えられ、現在に至っております。

 伽藍管理は東龍寺尾根組合の皆さんによって今まで続き、年中行事も綿密に行じられております。

 厩尻観音という名は、他では馴染みがありません。厩(うまや)といえば、何よりイエスの生誕を思い起こします。それと共に、観音様といえば、マリア様が連同して思い浮かびます。その名称の由来に思いを馳せますと、当時この地にどの様な文化的な背景があったのでありましょうか、まことに興味は尽きません。

 無頭坊上人塚

 天保の飢饉の頃(1830年代)逸見一帯凶作のうち続く中、一人の托鉢僧が村を訪れ、村人に対して「わしは、長い間ひとさまのご供養によって生きながらえてきた。自分は穀断ちして死を迎え、村人たちの身代わりになりたい」と申し出た。そして、「自分はこの穴の中に身を埋めて、息が絶えるまでお経をあげたいと思う。なお、穴を埋める際、上の方へ竹筒を立てるのを忘れないでくれ」と言ったという。

 村人たちは言うとおりにした。お上人は土の中でお経を唱えながら鐘をたたいた。その鐘の音は、一週間も聞こえたそうだ。

 後になって、その跡へ、円頭の無縫塔を立てた。ここを熱見西割の人々は、無頭坊と呼んでいる。

 山本千杉編『改訂 高根のむかし話』より抜粋取意。

 さて、無縫塔とは、縫い目なし、継ぎ目なしという意味です。お参りする側とされる側との間に境がないという、最尊最上のお墓である「無縫塔(むほうとう)」がいつの間にか「無頭坊(むとうぼう)」に転訛してしまったのではないかと思われるのですが、いかがでしょう。

 同書によれば、小池地区にも同じく「上人塚」と題し、類似した内容の伝承が残されているようです。

 どちらの伝承にも共通している、仏道修行のため、自身の身を供養することを、「捨身(しゃしん)行」と申します。

 この身を捨てての上人の求道心に大いに打たれることであります。

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無頭坊上人塚(無縫塔)

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