新春のご挨拶を申し上げます。
若和尚の雄道です。
禅宗の和尚さんでこの様な歌を詠んだ方がおられました。
門松は 冥土の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもあり めでたくもなし
意訳:門松はめでたいものであるが、門松を立てるたびに年をとり、死にそれだけ
近づくことになる。したがって、門松は死に向かう旅の道すがらにある一里塚の
ようなものだ。
※一里塚は現代でいう所の道路の標識
とんち話で有名な一休さんです。
しかし実は、アニメなどの可愛らしいイメージと、一休禅師のお人柄とは隔たりが実に大きい。
人々が無事に新年を迎え、お祝いムードの京都市中を、縁起でもない和歌を詠み、杖に頭蓋骨をくっつけて、「ご用心 ご用心」と言いながら練り歩き、人々に縁が悪がれ石を投げられたというエピソードが残っております。
中々一筋縄ではいかない人物であったようですね。
それにしても、この和歌の弊害として、新年のお慶びを申し上げる刹那、この歌が頭をよぎり、おめでたい気持ちに水を差された心持ちになる禅坊主は、私だけではないだろうと思います。
お正月だからと、浮かれる人々に警鐘を鳴らした一休禅師の狙い通り、私も毎年毎年楔を打ち込まれているわけですね。
さて、昭和の時代。「宿なし興道」という通り名の如く、特定の寺に身を寄せず、坐禅で生涯を過ごした、澤木興道というお方が、この和歌について語っておられます。
きっかけは、知り合いである浄土真宗本願寺派の院主さんが、澤木老僧に年賀状を寄こしたこと。
「貴宗師においては、めでたくもめでたくなしと存じ候えども、まずは凡夫並みにて謹賀新年」という内容でした。
澤木老師はズバズバ物を仰る方でしたので、「謹賀新年」だけでは、後で皮肉を言われるかもしれないと思ったのでしょう。
そのハガキを読んで老師は、
「禅というものはそんなもんだろうか。そんなに皮肉った、念のいった、けったいなものなのか。」と思ったというのです。
そして老師は、
仏教とは「自分自身が決定的にめでたくなること」であると老師は仰います。
オギャアと生まれてから、死ぬまでの間、徹底的にめでたければ、不幸なことはなく、めでたいことだけで、生涯を過ごせる。その様な生き方が出来る坊主というものになれて、自分は幸運だったと講演録の中で仰っております。
いつ何時も死と向き合い、地に足をついて生きることを迫る一休禅師。
この世にある我が命、それだけでありがたいと喜び生きる澤木老僧。
実に振り切った生き方だな、と感嘆致します。
皆さんは、お正月をどのように迎え、どの様に過ごされますか?
一年の計は元旦にあり。
今年もめいっぱい、この御命を謳歌して参りましょう。
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