
住職の雄道です、こんにちは。
禅宗の教えで「不立文字 (ふりゅうもんじ)」があります。
「悟りは文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものである意。」
というのが、広辞苑での解説ですが、
「言葉に騙されちゃダメ。」という意味で私は受け取っております。
だからといって、禅宗が言葉を軽んじているわけではありません。
禅宗では、凄まじい量の書籍が遺され、
現在でも日々出版され続けております。
むしろ、重んじている様にすら見えます。
そのためか、修行僧を導く立場の老師(特に広く尊敬を集める方々)は、軒並み言葉に気を使われている様に感じます。
以前いた修行道場にて、参禅者への坐禅指導中のこと。
坐る時の目のやり場の説明で、
「目線は一畳先に落としてください。」
と説明しておりましたら、
その場におられた老師に、「目線じゃない、視線だ!」とお𠮟りを受けた事がありました。
後々調べてみると、
「目線」というのは、昭和以降、映画や演劇やテレビなどのメディアが登場して現れた俗語ということ。
私は、思いましたよ。
「だから何だよ!」。
言葉というものは、日々変化していくもので、
俗語だろうが、何だろうがそこまでこだわる必要性があるのか?
その強いこだわりは、執着ではないか?
このことを、老師に投げかけると、
「目線と視線、どちらでも良いという者もいる、
しかし、参禅者の中に、あんたの言葉遣いに違和感を覚えた者がいたら、その人の集中を妨げ、坐禅の邪魔となり、その人はあんたの言葉を疑い始める。
食べた物が自身を形作ると同じように、言葉もあんた自身を形作っていくことを忘れるな。」
説得力がありました。
自分の口から出た言葉が自分自身を形成していく、考えてみると恐ろしい事ですね。
「そもそも正しい言葉って何よ?」
という疑問は残りながらも、
言葉は万能ではない、だからこそ取り扱いには注意が必要。
肝に銘じていきたいものです。

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