
こんにちは、若和尚の雄道です。
例年通りのことなのですが、この時期は毎日草刈りに追われております。
そんな中、思い出した言葉があります。
「雑草という名の草はない。すべての草には名前がある。」
植物学者の牧野富太郎博士の言葉です。
「オオイヌノフグリ」、「センダイヤザクラ」、「スエコザサ (奥さんのスエコという名にちなんで)」 など他にも多くの植物を発見し、名前を付けた、「日本の植物学の父」ともいうべきお方です。
それぞれ異なる植物の個性に目を向け、その違いを研究することに生涯多くの時間を掛けてこられたお立場からは、植物の豊かな多様性を無視した「雑草」という言葉は、さぞ鼻持ちならない言葉であったのではないかと思います。
また、昭和天皇もこの言葉を使われております。
昭和天皇が那須でご静養中、お留守の間に、お住まいの御所の庭の草が茂りすぎていたため、侍従の入江相政さんが刈り取った時のこと。
それに気づかれた天皇陛下が、「どうして庭を刈ったのかね」とお尋ねになられました。
入江さんは「雑草が生い茂ってまいりましたので、一部お刈りいたしました」と答え、
お褒めのお言葉を頂戴するかと、思っていたとのことです。
ところが、これに対して天皇陛下は、いつになく厳しい口調で、
「雑草ということはない。どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのはいけない。注意するように。」と諭されたとのことでした。
激動の昭和を、 天皇として生き抜かれたお立場からの御言葉、感慨深いものがあります。
侍従さんが風景を邪魔する「雑草」と思っていた植物群を、陛下はそれもお庭の風景の一部として愛でておられたのではないかと思います。
やんごとなき御方のお話の後で、恐縮してしまうのですが、私にも身に覚えがあります。
以前いた修行道場で、八十歳を過ぎた老僧の身の回りのお世話をするお役を頂いたことがありました。
始めての対面でのご挨拶の時に、
「どうぞよろしく。」
と柔らかく接して下さった老僧に向かって、
「一生懸命おつとめさせて頂きます。どのような雑用でもお申し付けください。」
と深々と頭を下げて申し上げました。
その途端です。
老僧の目がギラリと光り、
「世間では知らんが、少なくとも坊さんに雑用なんて言葉はないわい。」
と凄みのある口調で仰いました。
即座に、わたしは「失礼いたしました。」と瞬発的に答えたのですが、そこは未熟者、
同時に頭の中では、
『雑用といっても、雑にやることではないし、「どのような種類の仕事でも」という意味で言ったのに。。。』と思っておりました。
ですが、流石に修行を積んだ老僧、若輩の修行僧が考えていることなど、手に取るようにわかるのでしょう。
「あんたが人にお茶を淹れるとする。
湯を沸かして、湯飲み用意して、茶葉選んで、湯飲みを温めて、菓子だなんだと色々する。
坊さんの修行というのは、その全部に、これっきりとばかりに心血を注ぐことじゃ。
そういう腹でやれば、雑用なんて言葉で括れるものはないとは思わんか。
ない言葉は使いなさんな。
あんたが口から吐いた言葉は、そのままあんたの生き方になる。
坊さんはな、言葉には人一倍心を配らんといかん。」
とたしなめて頂きました。
今現在、泉龍寺の寺務を住職から引き継いでいるさなか、不慣れな仕事に追われる日々です。
しかし、そんな今だからこそ、修行時代に頂いた老僧のお言葉を、大切にしていこうと思うのです。

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