和尚の雄道です、こんにちは。
泉龍寺は、自然に囲まれた立地ですから、
毎朝鳥たちがさえずりながら、伽藍の間を縦横無尽に飛びぬけ、
実に賑やかです。
ただ、時として飛び違えた鳥が、建物に身体を打ち付け、庭先に落ちていることがあります。
その日の朝も、
ヒヨドリに似た、灰色の鳥が軒先で息絶えておりました。
山内で遺骸を見つけた時は、
いつも穴を掘り、埋め、短いお経を挙げるものですから、
早速スコップを取りに納屋へ行き、また戻って参りますと、
そこにあったはずの鳥の死体はすでにありません。
時間にして一、二分の事でしょうか?
他の鳥、或いは獣によって持ち去られていってしまったようです。
「ああ、申し訳ないことをしたなぁ。」
とその瞬間は思ったわけですが、よくよく考えてみますと、
それは私の一方的なものの捉え方かもしれません。
鳥自身は、自らの生命を全うした。
遺体を持って行った生き物は、
その遺骸を己の、又は子供のエネルギーに変えてその生命を繋ぐ。
私が穴を掘って埋めていた場合は、
その遺体は分解されゆっくりと土に還り、土地にエネルギーが蓄えられる。
埋葬するという行為は、死を迎えた存在への「慈悲」や「おもいやり」の気持ちからなのですが、今まで、私が庭に埋けてきた、鳥の遺骸によって繋いぐことが出来た生命もあったのかもしれません。
鳥葬という文化をもった地域もあります。
※肉食の鳥類に死体を処理させるもの。
では、これからまた、庭先で鳥の亡骸を発見したら、どうするべきなのか?
改めて考えてみても、私はやはり、埋葬し、お経を唱えるのでしょう。
正解は一つではない。
だから、これは完全に私の都合ということになるのですが、
死したる存在への敬意を常に持ちながら生きていたい。
むしろ、生きている死んでいるの区別なく、
生きとし生けるもの全てを等しく敬う、
それが私の思う、僧侶としての生き方だと思うのです。
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