和尚の雄道です、こんにちは。
いきなりですが、好きな戦国武将はおられますか?
有名どころとしては、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がまず浮かびますかね?
山梨県民としては、
武田信玄は外せませんでしょうし、
そのライバルとされる、
上杉謙信は「軍神」と称されておりますね。
他にも、黒田官兵衛、真田幸村、加藤清正。。。
挙げていけばキリがない。
それぞれが、英雄的なカッコよさがあります。
「宇喜多 秀家 (うきた ひでいえ) 」という武将がおります。
イケメンであったという話が残っておりますが、
英雄的なエピソードはあまり残っておりません。
むしろ、評判は悪い方だと思います。
でも、その生き方は、いささかの親近感を覚えると共に、興味深いものです。
宇喜多 秀家
秀家の父である、直家(なおいえ)は、策謀に秀でた人物で、
元々、備前を治めていた浦上家に仕えておりましたが、下克上にて成り上がり、宇喜多家は、今の岡山県を統治することとなる。
その後、信長の命令で攻めてきた豊臣秀吉の説得により、
織田家の家来となります。
その後、秀家九才の折、
父直家は病死し、幼くして家督を継ぎました。
先見の明があった父の元、勢力を拡大した宇喜多家の跡取り息子、
いわゆる、「良い所の坊ちゃん」ですね。
その後、秀家は秀吉によって非常に可愛がられ、
秀吉が加賀の前田家から迎えた養子である、
「豪姫(ごうひめ)」を嫁がせます。
因みに、秀家の「秀」の字も秀吉から授けられておりますし、
朝鮮出兵の際には総大将に任命されていたことからも、その重用ぶりが伺えますね。
先代が主人を裏切った事で栄えた、ポッと出の一族、
しかも若年の当主が、
強い権力を持った人物の後ろ盾を持って、
どんどん、どんどん実力以上の出世していく。
秀吉によって、家臣筆頭の「五大老」の一人に数えられたのは、
全国でも、五本の指に入る権力者となったのは、27才でした。
歴戦の武士達を束ね、率いる様なリーダーシップをとることは難しそうですね。
「若造のボンボンが調子に乗りおって!」
と、激しい嫉妬の対象になり、反感を持たれます。
また、朝鮮出兵や、自身の地位が上がることによる、出費が増え、
国内では重税を課し、内政の評判はすこぶる悪かったようです。
結果として、秀吉の亡き後、豊臣家を護る立場として奮闘しますが、宇喜多家の内部からは、多くの有力者家臣が離れていきます。
秀家ではなく、秀吉の力でもって、宇喜多家は保たれていたわけです。
日に日に、豊臣家と徳川家の対立が明白になるにつれ、徳川家陣営に人が流れていきます。
そのまま、天下分け目の関ヶ原の戦いを迎え、
西軍、副大将として参戦し、大敗。
薩摩に逃げのびるも、捕らえられ、八丈島に追放されます。
当時無人島であった八丈島に、秀家が、息子達と家来達10名程で訪れたのは、33才の時でした。
ここまでの秀家の人生には、私は全く心を動かされません。
しかしここから、84才までの約半世紀、秀家は生き抜きます。
全国屈指の大大名から、一転、天下の大罪人へ。
「鳥も通わぬ」と詠われた八丈島へ流されることに。
自ら田を耕し、水を引き、ヒエやアワを育てる。
名誉を重んじる武将が、生き恥をさらし、それでも生きる。
湧き上がるくやしさ、情けなさ、無力さ、やるせなさ、不甲斐なさ。
自死を考えたこともあったろうかと思います。
それでも、生きることを選ぶ。
宇喜多家の家紋は、「剣片喰(けんかたばみ)」。
片喰は、「逆境でも花を咲かせる」という意味。
家紋に恥じぬ生き様です。
剣片喰
関ヶ原の戦いに参加した武将で、頭一つ抜けて長生きしたのが、
宇喜多秀家です。
長く生きれば幸せかと言えば、そうではない。
人生は、つらいことも多いわけですから。
現に、八丈島での生活は過酷そのものであったことでしょう。
秀家は、もしかしたら武将としての才覚は無かったのかもしれない。
外交的なバランスも、内政的なセンスも持ってはいなかったのかもしれない。
それでも、時代や生まれに翻弄されながら、
自身に与えられた定めを受け入れ、
評価は別として、
その責任を全うした様に思います。
そんな秀家の生き方を前に、
「んん~、凄い人生だ!」と、思わず呻ってしまうんですよね。
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