坐禅をする時、呼吸はとても重要な要素になります。
さて、ここで問題です。
呼吸を調えよう、深く呼吸をしようという時、皆さんは、まずどうなさいますか?
息を吸いますか?
息を吐きますか?
以前、ある老師が講演会で、同じ質問をなされておりました。
参加者に質問して、しばしの沈黙の後、
「簡単なことです。まず、吐き出すんです。新鮮な空気を沢山入れようと思ったら、まずそのスペースを作らにゃならんでしょ。入れたきゃ入れたいだけ、吐き出さにゃならんのです。まともに息を吐き出しもいないうちから、吸おうとすれば、すでに肺はいっぱいで、深い呼吸などできません。
まず吸いこむなんてのは、もっと手に入れよう、もっと手に入れようという、人間の欲がましく、浅ましい貧乏根性ゆえですな。」
と答えられました。
「どっちなのかな?」と、思考を巡らしてしていた私は、バッサリ切り捨てられ、思わず知らず苦笑いを漏らしたものです。
これは、何も坐禅だけの話ではないのでしょう。
こんな話があります。
昔、有名な禅の老師がおられました。
ある日、その名声を聞きつけた、学生さんが、たかが坊主のくせにとばかりに、その老師を言葉で打ち負かしてやろうと、お寺を訪ねました。
最初に老師は、お茶で学生さんをもてなしましたが、学生さんは出されたお茶も飲まずに、
ああだこうだと、老師に次々と問答を吹っかけてきます。
最初は、受け答えしていた老師でしたが、こちらの話を全然聞こうとしない学生さんを前にして、いきなり学生さんの湯飲みに、急須でお茶を注ぎ始めました。
お茶には一切手をつけていなかったわけですから、当然湯飲みは直ぐにいっぱいになります。
それをみて、学生さんは、
「和尚、もう満杯です。こぼれます。」
といいますが、老師は注ぎ続けます。
堪り兼ねた学生さんが、
「和尚、満杯の湯飲みにお茶が入るはずないでしょう。止めて下さい。」
と言いました。
すると、老師が、
「そうじゃろう。満杯に入っとったら、お茶は入らんでこぼれて無駄じゃ。
あんたもそれじゃ。
話す前からあんたの頭は、自分の考えで満杯じゃ。
そんな輩にいくらこちらが教えを注いだところで右から左で時間の無駄じゃ。
もう帰りなさい。
話を聞きたいなら、まず頭を空っぽにしてから来なさい。
話はそれからじゃ。」
それを聞き、学生は黙って帰っていったということです。
びしょびしょのスポンジで水は吸えません。
一方で、しっかり絞ったスポンジは、どんどん水を吸収していきます。
知識を得て、多くのことを経験すると、同時に自身の中で定着した価値観や信条に凝り固まってしまうことって、ありますね。
まず、肺に溜まった空気をしっかり吐き出して、それから新しい空気を深く取り込んで、一瞬一瞬を新たに生活していきたいものです。
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