
こんにちは、若和尚の雄道です。
曹洞宗という宗派では、生活の一つ一つの行いに、実に綿密に作法が決められております。
私が修行でお世話になったお寺でも、細かく様々なことが決められておりました。
顔の洗い方。食事の仕方。トイレの使い方。入浴の仕方。睡眠のとり方。
多岐に渡って作法が厳密に決められておりました。
ですので、入門当時は皆、苦労します。
なぜなら、作法通りに過ごしているかどうか、常に先輩方の監視の眼の中に身をさらし、作法に反した瞬間、即座に指摘され、注意されるためです。
その注意も「気を付けてね~。」というような柔らかいものではなく。
それはそれは、雷が体中を駆け巡るような叱責を頂戴します。
特に食事の作法は厳密で、細心の注意を要するものでした。
一回の食事に、おおよそ25分ほどの時間を要するのですが、その時間全てが細かい作法の積み重ねで出来ております。
食事中、新入りは、何年も先輩のベテラン修行僧の前で、頭をフル回転させながら、緊張に打ち震える手をおさえつつ、覚えたとおりの作法に従って必死に食事を進めていきます。
今何を食べているのか、味などとても分かりません。
私は入門当初、その様な形にばかりこだわる指導方法に懐疑的でした。
その様な時、先々代の永平寺住職である、宮崎奕保 (えきほ) 禅師様の言葉に出会いました。
「学ぶ」ということは、
真似(まね)をするというところから出ておる。
一日真似をしたら一日の真似や、
それで済んでしまったら。
二日真似して、それであと真似をせなんだら、
それは二日の真似。
ところが一生真似しておったら、
真似がホンマもんや。
だから、真似が真似になってしまわんようにすること、
それが大事や。
そしてそれは、口で言うより実行や。
確かに、「学ぶ」は真似するという要素が強いでしょう。
自らの体の中に、目指すべき型を刷り込むとでも言いましょうか。
八年ほど前急逝された、18代目中村勘三郎さんが歌舞伎の型についてのインタビューで
若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを「型破り」というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの「型なし」です。
と答えておられたのを思いだします。
実に耳が痛いことです。
後々知ったことですが、修行場所で指導された作法には、その全てに理由がありました。
特にやかましかった「食事作法」には、私たちの生命を支えてくれる、同じ生命である食物への、並々ならぬ感謝が込められているものでした。
学ぶべき教えの中にどっぷりつかりながら、それの教えに全く気付かない、恐ろしいことです。
大学を卒業したての若造を、まずは形だけでも僧侶に仕立て上げるのです。
これほど有難い指導方法は当時の私には他にあり得なかったでしょう。
さて、禅師様は究極的には誰の真似をしろと我々におっしゃっておられるのでしょうか。
大工さんになるには、大工さんの真似を。
コックさんになるには、コックさんの真似を。
もしも泥棒の真似をすれば、泥棒になってしまう。
では、仏様の真似をすれば、どうなるのでしょう?
分かり易い言葉でありながら、実に奥行きのあるお言葉です。

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