
こんにちは、若和尚の雄道です。
去年四月より、住職と相談の上で、泉龍寺に於ける法要は私を中心として、お勤めをさせて頂いております。
それ以前は、外で見分を広めさせて頂いていたこともあり、私自身は、お檀家さんを始めとした泉龍寺を取り巻く人間関係とは、少し距離がありました。
大抵の葬儀は、故人との生前の交流が無い状態での参列。
葬儀会場にて、初めて対面する時には、すでにお骨の姿であり、その遺影のみが、その人となりを偲ぶ、唯一のよすがでした。
そんな時、私の中で芽生えるのは、
「生前にもっと関係性を築けておれば、お手伝いながらも、もっとご遺族に寄り添えるのに。。」という歯がゆい思い。
その様な思いで日々を送り、次第に泉龍寺の輪の中に入れて頂いて、今に至るわけです。
しかし今、改めて思い返してみますと、随分認識が甘かったなと感じます。
当たり前のことではありますが、生前に関係性を密であれば密なほど、人間関係が深ければ深いほどに、その別れの悲しみは私自身にとっても、重く強いものになります。
僧侶達の間での暗黙の了解として、個人との別れに際し、自身の感情を表に出すことはご法度です。
つまり、涙を流すのは絶対に慎むべきこと。
なぜなら、通夜、葬儀、告別式は遺族を始めとした、縁者のものです。
決して、菩提寺や僧侶のものではありません。
もし、旅に行った先で、お客さんを放ったらかしにして、ガイドさんが一人で、感激していたら、その旅行はガイドさんのものになってしまうでしょう。
お葬式は、故人に対して、遺された人々がお別れを申し上げる場です。
故人の手を引いて導く、導師たる僧侶は、偏った感情を持って臨むことは控えるべきでしょう。
とは言いながらも、やはり感情のコントロールは難しい。
皆さんとの関係が深くなるにつれて、私にとってお葬儀は苦しいものとなりました。
ですがそれで良いのでしょう。
人間の限られた時間の中であればこそ、
僧侶としての役割を忘れずに、
これからも様々な方々との繋がりを深めていきたいものです。

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