こんにちは、若住職の雄道です。
妻の話です。
彼女は小学生のころ、家でセキセイインコのピコちゃんを飼っていました。
セキセイインコは、大変賢い鳥として知られており、小型のインコの中では、最もおしゃべりをするのが上手だそうです。
また、人間くさいところがあって、飼い主の気を惹くために仮病を使ったりもします。
ですから、ピコちゃんも頭の良い子で、小学校から帰ってくると必ずしゃべり掛けてきて、一人っ子であった妻と毎日遊んでいました。
しかし、ある日のこと、
近所の猫に襲われて、命を落としてしまったのです。
毎日遊んでいたピコちゃんとの、何の前触れもない別れ。
あまりの事に大泣きして、二日間寝込んでしまったそうです。
セキセイインコは、しっかり環境を整えてあげれば、10年以上生きる鳥。
しかし、ピコちゃんは三才でした。
毎日餌をあげ、話しかけ、遊んでいたのに。
これから何年も、当たり前の様に一緒に生活していくものだと思っていたのに。。。
それはもう叶わなくなりました。
それからしばらくして、どうしてもピコちゃんとの生活が懐かしくなり、今度はオカメインコのポーちゃんという子を飼い始めました。
警戒心が強く、静かな子でしたが、この子も良く懐いてくれました。
結果として、ポーちゃんは18才まで生きました。
最期には、自らの力で水が飲めなくなったので、スポイトで水を飲ませてあげました。
今度は、その命を全うするところを傍で見守ってあげることが出来たのです。
ピコちゃんの死では、二日寝込む程に感情が乱れました。
でも、ポーちゃんの死は穏やかな気持ちで受け入れることが出来ました。
ピコちゃんの「死」
ポーちゃんの「死」
同じ「死」でしょう。
にも関わらず、遺された者の感情には大きな隔たりがありました。
どうしてでしょうか?
私は常々、身近な存在の「死」を受け入れるには一定のプロセスが必要なのだと思っています。
つまりその「死」に対する覚悟を持つ時間が必要になるということです。
その者の、老いを感じ、床に臥せば、看病をし、死に水をとり、見送りをする。
そのような過程の中で、自然に別れに対する覚悟をしていくことになるのでしょう。
しかしながら、全ての別れの現場で、その様な覚悟を持つことが出来るわけではありません。
事故、事件あるいは災害に巻き込まれたり、急な病に見舞われたり、もしくは自ら死を選んだり。
遺された者は、死を悼む以前に、不意に訪れた別れを前にして茫然としてしまいます。
その様な中で、人によっては自責や後悔の念に駆られ、心や身体のバランスを崩してしまうこともあるのかもしれません。
ですが、そのような時には、思い出して欲しいのです。
その自責や後悔の念の裏には、亡き存在への深い愛情があることを、故人を育んだ宝物のような時間があったことを。
自責や後悔の念と、故人への愛情はコインの表裏の様に表裏一体でしょう。
でもなぜか、人は自責や後悔にばかり気持ちが持っていかれてしまう。
もちろん、自責や後悔の念を持つことを否定するわけではありません。
ただ、故人への愛情が自らの中に沢山あることをもっと思い起こして欲しいと思うのです。
ニュースでは毎日様々な事件、事故や災害が報じられております。
その陰におられるご遺族の方々に光の届きますことを願ってやみません。
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