若住職の雄道です、こんにちは。
今年もゴールデンウィークが始まったわけですが、まだまだ行きたい場所へ自由に移動できる情勢ではありませんね。
おかげ様で私の読書量も増えました。
「好きな作家は?」
よく聞かれる質問ですが、一人に絞ることのは実に難しい。
それでも、まず頭に浮かぶのは宮沢賢治ですかね。
特に、『セロ弾きのゴーシュ』というお話が好きです。
ゴーシュは、町の「金星音楽団」という楽団で、セロ(チェロ)の担当。
次の音楽会で演奏予定の『第六交響曲』の練習を続けておりましたが、あまりにも下手なため、いつも楽長に叱られておりました。
そんなゴーシュのもとに、三毛猫、カッコウ、子狸、野鼠の親子が夜毎に訪れ、様々な理由を付けてゴーシュに演奏を依頼します。
動物たちとの経験を経て、さて音楽会本番。
オーケストラの演奏は見事に大盛況。
司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名しました。
自分に自信のないゴーシュは、馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しながら、『印度の虎狩り』という曲を夢中で演奏します。
その演奏は観客を始め、楽長、楽団員からも大絶賛を受けることになりました。
ゴーシュという一人の青年が、動物たちとの繋がりを通して成長を遂げていく物語であり、読み直す度に新しい発見のある、味わい深い作品です。
是非ご一読ください。
そして感想をおきかせ頂けると嬉しいです。
さて作中、カッコウがゴーシュの家にやってくるシーンがあります。
カッコウは、ゴーシュに、
「音楽を教わりたいのです」
と告げ、
「先生、どうかドレミファを教えてください。わたしはついて歌いますから」
と迫ります。
「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか」
とバカにしていたゴーシュですが、
一緒にチェロで「かっこう」と演奏し、それを何度も繰り返していくうち、
鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてくるのでした。
そんな事実に腹が立ったのもあってか、しつこく何度も練習をせがむカッコウに向かって、ゴーシュは、
「だまれっ。いい気になって。このばか鳥め。出ていかんとむしって朝めしに食ってしまうぞ。」
と怒鳴り、驚いたカッコウが一目散に逃げ、二人の練習は幕を下ろします。
禅宗の坊さんとして、このシーンでのカッコウの言葉と姿勢に大いに感じるものがありますので、以下に紹介させて頂きます。
(「かっこう」と鳴くことが、いかに難しいことであるかと嘆くカッコウに対して)
「むずかしいもんか。おまえたちのは、たくさん鳴くのがひどいだけで、鳴きようはなんでもないじゃないか。」
「ところが、それがひどいんです。たとえば、かっこう、とこう鳴くのと、かっこう、とこう鳴くのとでは、聞いていてもよほどちがうでしょう。」
「ちがわないね。」
「ではあなたにはわからないんです。わたしたちのなかまなら、かっこう と一万いえば一万みんなちがうんです。」
考えさせられます。
カッコウにとって、「かっこう」と鳴くことは、正に自らの命の発露、
生きるということそのものでしょう。
時々刻刻、全ての事物が移ろい、私たちの身体も心も変化を余儀なくされております。
であれば、その自らの生命にしっかりと向き合っているのであれば、同じ「かっこう」という鳴き声も、
「かっこう と一万いえば一万みんなちがう」というのは当然なのかもしれません。いうのは当たり前の事なのかもしれません。
同時に、自らを振り返ってみて、なんと雑に、無頓着に日々を送っていることか。
私達人間は、大体二万から三万回の呼吸を一日のうちに行うそうですが、
呼吸一回一回を本当に噛みしめておりますでしょうか?
カッコウには見習うことが多いようです。
いや、そこまではいかずとも、せめて当たり前の上で生活していくのではなく、
有り難いの上で生きられていることを忘れたくないものです。
Comments