若和尚の雄道です、今日は。
お寺での法事の際、ご参列される皆さんの中には、小さいお子さんもいらっしゃいます。
日常の生活空間とは、異なる場所に連れてこられ、辺りをキョロキョロしながらお父さん、お母さんに色々な質問が投げ掛けられることは恒例行事の様なもの。
なかでも多い質問が、こちらの頭を指さしながらの
「ねぇ、あの人なんでツルツル頭なの?」というものでしょう。
色々に理由付けがなされておりますが、私は子供さんに、出来るだけ分かりやすい様に、
「お坊さんと、そうでない人を一目で見分けられる様にするためだよ。」
と答えます。
どこにいても、お坊さんとしての振る舞いを心掛ける様に。
常に周囲から、僧侶として認識されていることを忘れないように。
このツルピカ頭は、その様な和尚としての心構えであるとも言えるでしょう。
さて、他の理由として、
髪の毛を「煩悩」と考える捉え方もあります。
自分の意志とは別に、伸びてくるのが髪の毛であり、
同じ様に、自身のコントロールの及ばないのが「煩悩」でしょう。
断ち切っても断ち切っても、また生じて、次々に湧いてくるのが髪であり、「煩悩」ということになります。
剃っても結局は生えてくるのだから、それはそれで自然に任せてみる考え方もあろうかと思いますが、やはり煩悩を少なく保つ努力はするべきでしょう。
因みに、禅宗のお坊さんの修行時代は、4と9のつく日に、必ず髪の毛を剃ります。
また、それは必ず二人一組で行います。
片方が相手の髪を剃り、終わればまた片方が相手の髪を剃る。
修行道場に鏡はありません。
自分で自分の姿がしっかり見えませんから、相手に剃って貰うのはきれいに頭を剃るために良い方法でしょう。
そしてこれは、「煩悩」も同じですよね。
「煩悩」に囚われている己の姿を自身で認識することは困難でしょう。
怒りに支配されている時、人を妬んでいる時、自分がどんなに恐ろしい顔をしているか自身ではわからないものです。
だから、身近な修行仲間に頼んで、髪の毛を剃って貰うと同時に、自分の現在の姿をしっかり確認してもらうということになります。
仲間の「煩悩」を落とし、仲間に「煩悩」を落としてもらう。
「利他」という、相手の為に尽くす行いをしている時には、
自ずと「煩悩」と離れてしまっている。
色々考えられているんだなと改めて思います。
私は現在、自分で頭を剃っています。
たかが「頭を剃る」だけのことでしょう。
されど、その「頭を剃る」という行いの裏で、実は様々な教えや、誓いや、願いが込められている。
表面的な行為だけでなく、その裏に含まれている生き方に直結する真意を忘れないように、一日一日を送りたいものです。
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