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こんにちは、若住職の雄道です。
今年は、例年に比べて雨が随分多く降りました。
八月一日に、関東地方の梅雨明けが発表されましたが、例年に比べ、八日程遅れたようです。
毎日毎日雨ばかりで陽が差さないものですから、泉龍寺のある北杜市では、「いもち病」などの稲の病気が発生し、米作をされる方は頭を抱えておられます。
稲作だけではありません。
野菜作りでも、日照時間が足りず、腐ってしまったり、割れてしまったりと例年以上のご苦労をされており、結果として、野菜の高騰も招いております。
苦心し、愛情を込めて育てた作物が、収穫を目前にして、成すすべなく傷んでしまうのは、傍から拝見していても実に悔しい限りです。
さて、この様に雨が連日続くような時に、蔭で我々の生活を支えてくれるのが、「ダム」です。
ダムは人々が居住する地域よ上流に造られ、雨が降れば水を溜め、居住地域を流れる川の水量を調節します。
もし、ダムが無ければ、大雨が降った時、たちまちにして川は溢れ、土手は決壊し、居住区に水が流れ込んでくることになります。
私たちの気づかない所で、私たちの生活を大いに支えてくれているものの一つが、ダムだといえるでしょう。
なぜこのような話をするのか?
奇妙に聞こえるかもしれませんが、私は、この「ダム」と「お葬式」の役割はよく似ていると思っております。
お葬式をあげる時、それは多くの場合、近しい方を亡くされた時です。
故人との関係性が近ければ近いほど、その衝撃は大きなものとなり得ます。
嘆き、悲しみ、人によっては、怒り、憎しみ、後悔など他にもその関係性によって、様々な感情が湧きだしてくるものです。
まさに心の中に大雨が降るようなものでしょう。
大雨を放っておくと、やがて雨は、川を溢れさせ、氾濫をまねきかねません。
私たちの心が悲しみなどに押しつぶされないように、
その悲しみの大雨を、ひとまずお葬式という、伝統的な形式に身を委ねることで、囲ってしまう。悲しみを悲しみのままひとまず溜めて覆っておくのが「お葬式」の一つの役割なのかと思います。
お葬式が、無事に執り行われ、喪が明け、故人の不在に向き合える態勢が整うとともに、水門が徐々に開かれ、溜まっていた感情が自然に少しづつ流れていく。
四十九日法要、百箇日、一周忌、三回忌。。。
先人達の出した『「親しい者の死」への向き合い方』の一つの回答がここにあるのです。
「お葬式」だけにとどまりません。
私たちの身の回りで当たり前に行われている習慣には、昔の人々の英知が潜んでおります。その習慣を、先人の意図を酌んで行うか、ただ伝統だからという理由で行うのかでは、全く意味合いが変わってきてしまうことでしょう。
私達、寺院側も出来る限り積極的に、情報を発信していきたいものです。
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