
こんにちは、若住職の雄道です。
今年は、コロナの影響で、檀信徒皆さんのご参加は叶いませんが、
毎年泉龍寺では、秋のお彼岸初日に、「総回向(そうえこう)」という行持を行い、その際、お塔婆をそれぞれのお墓に建立させて頂きます。
例年ですと、住職が全てのお塔婆を仕上げるのですが、今年から私もその一端を担わせて頂いております。
今年の四月以降、泉龍寺にまつわる住職としての多くの業務を引き継いで参りました。
師匠であり、父である住職から何かを引き受ける際には、
いつもこちらの裁量に委ねられ、自由にやらせて頂いております。
引き継ぎに際して、住職からの事前の注意事項は実にシンプルなもので、
「楽しみながらおつとめするように。」
というものでした。
「一生懸命におつとめしなさい。」や「頑張りなさい。」
であればよく耳にするアドバイスだと思いますが、
それらとは少し異なる意味合いを持っている様に思われます。
思えば幼い頃、砂場で友達と砂遊びをしていると、
気づけば辺りは暗くなり、時間を忘れて遊んでおりました。
当時の自分に、
「大変だね?変わってあげようか?」
と申し出れば、
「誰がこんなに楽しいことを変わるもんか。」
と答えることでしょう。
まさにそこには、心から熱中し、楽しんでいる私がいたのだと思います。
そのように、一心不乱に一つのことに没頭している状態を
「三昧 (さんまい) 」(前に言葉が付くと「ざんまい」となります。)
といいます。
禅宗の修行中も、このことが良く言われ
坐禅を組む時は、ただただ坐禅の坐禅三昧(ざぜんざんまい)
お経を唱える時はお経三昧
お粥を頂く時はお粥三昧
草取りをする時は草取り三昧
その時その時で、「目の前のコトに徹底的に集中しろ。」と教えられ、
また自らが後輩に指導する際もその事を伝えます。
その結果、使われる言葉は常に、
「一生懸命におつとめしろ。」でした。
しかし、ここ最近で、その取り組み方は正しかったのかと疑問を感じております。
全身全霊でおつとめすることが悪いことであるはずはありません。
そうではなく、
その取り組み方に問題があるように感じます。
集中しよう、全力を注ごうとすることに囚われすぎてはいたのではないだろうかと。
それは、四六時中肩の力が抜けず、柔軟性が無く、窮屈な生き方なのではないかと。
自らに与えられたおつとめに、愛着を持ち、熱中するという視点が大いに欠けていたのではないかと。
自分が集中している時は、集中している自分に気づきません。
後になって、もうこんなに時間が経ったのかと知って実感するものです。
であれば、「一生懸命」であるとか、「頑張る」という意識は行動を起こす前には必要ないのでしょう。
ただ、自分のなすべき事に出逢えたことを喜び、感謝し、それを楽しむ。
そのように考えてみると、住職のアドバイスはまさに金言でありました。
お彼岸前、お塔婆を仕上げるにあたり、
改めて、お塔婆を建てるお宅のことに思いを馳せつつ、
楽しみながらおつとめさせて頂こうと思っております。

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