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『般若心経』に親しむ?

更新日:2020年12月15日

     

『摩訶般若波羅蜜多心経』


観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子

色不異空空不異色 色即是空空即是色 受想行識亦復如是 舎利子

是諸法空相 不生不滅不垢不浄 不増不減 是故空中

無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多故 心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故

得阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪

是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説 般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経



こんにちは、若住職の雄道です。


さて上記は、いわゆる『般若心経』というお経です。


このお経は、大乗仏教の思想の中の「空」の思想を説いているといわれています。


同時に、大乗仏教の真髄ともいわれるお経で、我々禅宗寺院でも日常的にお唱えする経文です。

因みに、私が人生で一番初めに、覚えたのもこのお経でありました。


しかしながら、この日本人にはなじみ深いお経の解釈は、易々と一口で言えるものではありません。

そんな、短いけれど重要で、人にお伝えするのが難しいこのお経は、様々な方々によって様々に現代語訳をされ、訳者の個性が際立つ、味わい深いものがたくさん出回っております。


そのような数ある現代語訳の中で、以下の様なものがあります。



超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?

誰でも幸せに生きる方法のヒントだ

もっと力を抜いて楽になるんだ。

苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。

この世は変わり行くモンだ。 苦を楽に変える事だって出来る。

汚れることもありゃ背負い込む事だってある だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?

苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。


見えてるものにこだわるな。

聞こえるものにしがみつくな。


味や香りなんて人それぞれだろ?

何のアテにもなりゃしない。


揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。

それが『無』ってやつさ。

生きてりゃ色々あるさ。

辛いモノを見ないようにするのは難しい。

でも、そんなもんその場に置いて行けよ。


先のことは誰にも見えねぇ。

無理して照らそうとしなくていいのさ。 見えない事を愉しめばいいだろ。 それが生きてる実感ってヤツなんだよ。 正しく生きるのは確かに難しいかもな。 でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。


菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。 愉しんで生きる菩薩になれよ。 全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな 適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。


勘違いするなよ。 非情になれって言ってるんじゃねえ。

夢や空想や慈悲の心を忘れるな、 それができりゃ涅槃はどこにだってある。


生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。 心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。


この般若を覚えとけ。短い言葉だ。


意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。 苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。 今までの前置きは全部忘れても良いぜ。 でも、これだけは覚えとけ。


気が向いたら呟いてみろ。 心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。


いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?


『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』 『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』


心配すんな。大丈夫だ。


                                   訳者:不詳


荒々しく、そして砕けた表現で、感情に訴えるような現代語訳ですね。

お坊さんというよりも、ロックスターがライブで歌っている様な雰囲気です。

実に意訳の飛躍がダイナミックだなと感じます。


ただし、「分かり易さは」は反面、「浅薄さ」にもつながりかねません。

そういった意味では危うい面もある様に感じます。


ですが、この訳が、『般若心経』を軽んじているのでは無いことだけは、十分に伝わって来ます。

『般若心経』の大事な部分を、自身の言葉に直し、熱量をもって伝えようとしているのでしょう。

実際この現代語訳に触れた多くの方々が、感銘を受けていたようです。


さて、お経とは、「月を指す指」であるといわれます。

本当に伝えたい「月」があるのに対して

それを指し示す手段の「指」であるということです。


お経が、せっかくお釈迦様の教えである「月」を指し示しているのに、

その「指」、つまり「お経又は言葉」にばかり目を向けて、「月」を見ない者がいる。

という指摘は常々されているところです。


いかにお経を上手く読むか、多く覚えているか、また深く理解をしているか。

時としてそういったことばかりに注意がいきがちであるのは、気をつけなければいけないでしょう。


勿論、上手にお経を読むことは重要なことです。


しかし一番ではないのでしょう。


何より大事なことは、「月」の方を向いて、一歩が踏み出せるかどうか。

一歩踏み出したらまた一歩と、常に新しい一歩が踏み出せるかどうか。


受け取った教えを踏まえてどのように生きていくのかということ。


九月の月を眺めながら、そのようなことを思っております。





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