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「心」とは何か?「安心」とは何か?

先月当山で行われた勉強会で、『無門関』を皆で拝読致しました。  昔から、禅宗の和尚たちが、参じてきた大事な書物でありまして、大変有意義な時間を過ごすことが出来ました。その中で、四十一則「達磨安心」という則がありますが、その時の内容について少々触れさせて頂こうと思います。  まず、内容を一部意訳し掲載致しますが、インドから、中国に禅を伝えたとされる、達磨さんとお弟子さんとの間で以下のような話がなされます。 お弟子さん:「私には不安があります。師匠、私を安心させて下さい。」 達磨さん: 「その不安な心を持ってきなさい、お前のために安らぎを与えよう。」 お弟子さん:「探してみましたけど、心がみつかりませんでした。」 達磨さん: 「お前のために、もう安心させてあげたぞ。」  さて、みなさんはこれを読んでどの様に感じられますか?  とても有名な問答で、すでにお耳になさっていてお馴染みかとも存じますし、初めてのお方であっても、字面を追っていけば何となくわかった気になります。しかし、よくよく考えますと、中々に面倒な議論を孕んでいる様に思えてきます。  まず、その「安心(「あんじん」とわざわざここでは読みます)」つまり「心を安(やす)んず」という時の、心とは何か。仏教では、心をどのように捉えるのか。安心とはどのような状態を指すのか。そもそも心はあるのか。といった様々な問いを発しようとして、それをズバリ言葉で言い抜くには、余程の力量がなければなりません。そもそも問いを立てること自体が大変なことで、知識や認識の不足を先生から補っていただく、というような次元の質問ではもとよりない、達磨さんも、その点は重々承知の上で、「その不安な心を持っておいでなさい」とおっしゃる。「持ってこれるものなら、持っておいで」という含みが最初からあるのです。「師匠、私を安心させてください。」にしても、「師匠」とか「私」とか、そちら側とこちら側があるうちは、本来門前払いでよろしいわけです。けれども、求める側と求められる側との因縁が熟したというのでしょう。「もう、安心の真っ只中」とおっしゃる所に我他彼此(ガタピシ)はなし。禅坊主もそれなりのお方になると、こちらから質問をしかけられるような隙を見せません。けれども、質問も出来ないような奴はここにいるだけの資格はない、無駄飯喰らいはどうかさっさと出て行っておくれ、という意味合いも一方にある。寄りつくことも出来なければ、立ち去ることも出来ない、つまりは何としても何ともならないわけで、私自身、そんな真綿で首を絞められているような暗くて長い日々が続いたことであります。  当日の勉強会でも、それぞれのご意見を聞かせて頂きました。当然のことながら、学習参考書の模範解答集に見るような、何か絶対唯一の答えが最初からあるわけではないのですが、それでもきちんと具体的な収まり所はあるわけで、特に僧侶という立場であれば、その「これだ」という所を、自らの身体(からだ)や言語(ことば)でもって、いつでも、どこでも表現出来るだけの覚悟だけは結着しておく必要があるようです。お互い、どこまでいっても参究中、初めから安心は禁物なのであります。  ちなみに、無門和尚は、この問答を評して、「わざわざインドから、穏やかな水面に、波を立てるような、人騒がせなことを達磨のじいさんは持ち込んでくれたものだ。」という表現を使っております。皆さんは、どのように考えられるでしょうか?


                   達磨図

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