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「トン」と「トン・トン」

お蔭さまにて、迂生も何とか六十の坂を上りつめ、程なく七十代の入り口に立つことになりました。そこで、年齢を重ねるということが、いかなることであるか、そこを何とか禅の言葉で表現して、同世代の皆さんへの応援歌に致したいと思います。ただ応援歌というには、いかにも抹香臭いお話しで始まることを、まずはお許しいただかなければなりません。長年、お檀家の皆さんとのお別れに立ち会うことが、自らの勤めでありましたので、その点はご容赦願いあげたいと存じます。


 さて、その応援歌は、ご葬儀の時のご出棺時に、釘打ちという儀礼を勤める所から始まります。地域によって。その釘打ちの儀礼の内容は少しずつ違います。つまり、石でもってご遺族の方が順に棺の蓋に釘を打つのですが、その勤め方に一回のみの「トン」と、二回打ちの「トン・トン」と二手法があります。要は、棺の覆いを挟んで、内と外との二者の確認作業になる訳ですが、「トン」は「オギャー」という誕生の呱々の声にして、「ヨーイ、ドン」の出発の合図。「トン・トン」の方は「これで結着、トドのつまりですよ。」という末期の宣告です。出棺時のお別れの儀礼として、当然遺族の皆さんと共にご霊棺の傍らに侍しながら、両の耳には一つの表現しか届きませんが、「トン」と「トン・トン」の二つの音声を心の耳で受け取ることにしております。もともと、この「トン」と「トン・トン」は私たちの脚下でいつも鳴っている筈なのです。



 あの越後の良寛和尚には「つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十とおさめて また始まるを」という自製の手鞠歌があるのですが、時を同じくして鳴るこの二つの音を、さらり十七文字に歌いまとめていらっしゃる。その力量は大変なものであります。あるいはまた、西行法師の「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」一見、自らの死のことを詠んでいるようですが、ただそれだけでは、満開の桜の花も生きてはこないし、旧暦二月十五日の涅槃会(釈尊の命日)も生きてこない。やはり、死(トン・トン)の裏側にピタリと生(トン)がくっついて、死と生とが真に親しいということでなければ、この歌の凄みもないと思うのです。つまりは、裏返せば再生(リセット)の歌になる、誕生の歌でもあるということです。そうでなければ、次の事蹟が何とも腑に落ちない。 

 『吾妻鏡』巻六、文治二年閏七月十五日の条に、源家の棟梁 源頼朝が鶴岡八幡宮に参詣の砌、一人の老僧が鳥居のあたりを徘徊していたので、これを怪しんだ頼朝が近侍の梶原景季をもって、その老僧の名字を問はしめたところ、佐藤兵衛尉義清法師、今は西行と号すとの返事を得て、幕舎に招いて歓待したとの記事があります。六十九歳にならんとする西行が重源上人(俊乗坊)の依頼を受け、東大寺再興のため、奥州の砂金を勧進せんとして、藤原秀衡入道の元へ赴く途上、八幡宮まで巡礼の脚を伸ばしたことが記されているわけです。鎌倉初期の六十八歳は、今日の何歳くらいに相当するのでしょうか。その老爺が伊勢を出で、東海道を経て鎌倉鶴岡宮に詣で、なお奥州平泉を目指そうというのですから、西行という人間のド迫力に圧倒されるばかりです。トン(再生)を確実なものとするためには、まずトン・トン(死)に徹底しなければならない。と同時にトン・トン(死)に徹底するには、トン(再生)を確実なものにしなければならないことになる。しかと、そう思い定めた男の凄みといって良いものが、この歌の調べにはあるようです。  最後に、もう一つ、別な西行法師の和歌を引いて、同世代の皆さんへの応援歌を閉じたいと思います。  「風になびく 富士の煙の 空に消え ゆくも知らぬ わが思ひかな」                                    雨宝山守株比丘 雄参 合十指爪 令和元年七月上澣


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