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旧友



和尚の雄道です、こんにちは。



私が卒業したのはキリスト教系の大学でした。


一年生の頃、大学の学生寮に住んでいた私には、同じフロアに住まう同級生で、

神学部という聖書などからキリスト教学を修める学部に属す友達がおりました。


ご両親や兄弟も、そろってキリスト教信者で、まさに筋金入りの敬虔な信者です。


毎朝晩に、近くの教会に祈りをささげに通っている姿をよく目にしておりましたが、

その様な彼の姿に、私は一目も二目もおいておりました。


実家がお寺で、当時遠藤周作という作家の本をよく読んでいた私は、

キリスト教に興味津々で、

彼によく質問をしたり、十字のきり方を教わったものです。


興味本位で近づいてくる私に、

彼は本当に熱心に、かつ丁寧にレクチャーをし、質問に答えてくれました。


しかし、

「神様っているの?」という

私が当時一番気になっていた質問をした時だけは、

いつも物静かで、温和な彼が、

「おられるよ。」

と短い返答のみで、後は決まってムスッと黙ってしまうのです。


はじめは、その反応にギョッとしてしまい、遠慮していたのですが、

そこに何か彼の信仰に関する核心部分がある様で、ますます気になってしまい、

どうしても彼との会話がいつも自然に、

「神様っているのか?」という話題になってしまいました。


信仰に関する繊細な部分を、無作法に踏み入ってくる門外漢は、

もはや友人とは認めてもらえなかったのかもしれません。


彼との交友関係は、二年目に寮から出て一人暮らしを始めたことで完全に途切れることとなりました。



私の在学中、わずかながら交流関係を持たせていただいた神父さんは、

今考えてみても、皆立派な方々でした。


生活は慎ましく、勤勉で、静寂を愛し、寛容で、一本太い筋の通った方々でした。


そのうちのお一人に、

「神様っているんですか?」

と伺ったところ、

「おられますよ。」

と満面の笑みで答えられました。


その時は、なんだかすごく腑に落ちて、不思議な気持ちになったのを覚えております。


今思い返せば、あれこそが「説得力」というものであり、

自身の日々の生活の中で積み上げてこられてものだったのでしょう。



今現在私は、僧侶として歩んでおりますが、

私などは現在進行形で迷いの中です。


考えてみると、大学当時、彼もまた迷いの中にあったのかもしれません。


この二十年近い時の流れは彼をどのように変えたのか?

どのような歩みを進めてきたのか?


今改めて、あの同級生に会ってゆっくり話を聞いてみたいと思うのです。




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