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「先生」と呼ばないで

  • 6月1日
  • 読了時間: 3分

僧侶の雄道です、こんにちは。


世の中には、沢山の「先生」と呼ばれる方がおられます。


まずは、学校の先生ですね。

それから、お医者さん、弁護士さんが浮かびます。

または作家さんや、画家さんといった芸術方面の方もおられますし、

身近だと、習い事の講師さん達をそれぞれ「先生」と呼ぶでしょうか。


私自身も、「先生」とお呼びし、

敬愛の意を示すお方、何名かと巡り会っておりますが、

とても幸せな事だと感じております。


ただ、困ったことに我々僧侶も「先生」と呼ばれることがあるのです。


江戸時代の川柳に、

先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし

というものがあります。


現代でも、サラリーマン川柳というものがありますが、

そもそも「川柳」とは、

社会の矛盾をユーモアを交えながら皮肉ったりするものです。


「先生」と呼ばれて、多くの方から親しまれた御仁がおられる。

一方で、江戸の世でも、

『「先生」と呼んでおけば、あいつはゴキゲンだから」と、

裏で小馬鹿にされる存在が沢山あったのでしょう。


ですから私も、

何かの拍子に、「先生」なんて呼ばれたりしますと、

背筋がゾクッとする様な、

いたたまれない様な、

むしろ、煽られている様な心持ちになります。


だけど考えてみれば、その反応は間違っているのかもしれません。


私を、「和尚さぁん」と呼ぶ人がいて、

私が「はぁい」と答えるから、

私は「和尚」でいられるのです。


「お母さん」と呼び掛け、

「なあに?」と答えることで、

その二人は、血のつながりとは別の次元で、親子であり続ける。


人と人の間の遣り取りによって、その関係が結ばれる。


逆に誰も私の事を「和尚」と呼ばねば、私は「和尚」ではないわけで、

人の間と書く、「人間」は、字の如く、他人によって作られるます。


ですから、「先生」と呼ばれて、

即座に、「何ですかな?」と答えず、

「いや、私別に先生じゃないっすよ。」等と答えるのは、

まだまだ私に意気地がなく、覚悟が足りないだけで、

坊さんとして、実に野暮なのでしょう。


「先生」と呼ばれたら、

「はい!」と応答し、

「先生」と呼ばれるに値する実力をいかんなく発揮する様に努めるべきなのです。


そうすれば、関係を続けている内、お相手が次第に私の内面に違和感を感じ、

心の中で『あれ?この人は「先生」という感じではないぞ。』となり、

呼ばれ方も、

「先生」→「ご住職」→「住職」、「和尚」、「坊さん」等と、

勝手に、しっくりくる呼び方へとランクダウンし、調和していくものです。


こちらの出来る事と言えば、何とか面と向かって「クソったれ坊主!」と呼ばれない程度のランクを保つ努力をしたい所ですし、

また、呼ばれたところで、「クソをたれない坊主などおらんわ!」と、しっかりご返事できる程度には、鍛えておく事ぐらいです。


さて、今年も暑くなりそうですね。

みなさんご自愛くださいませ。

 
 
 

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